本当は自由なんて求めていない
「やりたいこと自由にやってます」
なんて言うと、なんかカッコ良く聞こえるかもしれません。
しかし、実はものすごく変です。
本当は皆、不自由の方を求めています。
自由の誤解
あなたはなぜ、自由を欲していますか?
どんな自由を求めていますか?
選択の自由?経済的自由?表現の自由?職業の自由?
何もしなくても、何も不自由なく生きている、そんな状態ですか?
それは単なる、わがままであって、自由を完全に誤解しています。
自由と責任と権利のバランス
その人の力量に比例する
現実的な話をしましょう。
自由には必ず、「責任」が伴います。
そして、その責任の重さに比例して「権利」が与えられます。
その権利の大きさに応じた、「自由」が与えられます。
自由とは、意のままに現実をコントロールできることであって、自由にはそれぞれ、影響を及ぼす「範囲」があります。
それをコントロールできる、力量が自分に備わっていなければ、その範囲は狭まります。
自由とは、この微妙なバランスで成り立っているんです。
経済的自由とは何か?
多くの人が求めるのが経済的自由ではないでしょうか?
「権利収入」や「不労所得」、働かずとも入ってくる収入や、十分すぎる蓄え。
しかし、これはあくまで結果であって、そこに至るまでには当然、それ相応の苦労があります。
稼ぐも稼がないも自分次第
収入をコントロールできる状態
経済的自由とは、働くも働かないも、稼ぐも稼がないも自分次第ということです。
安定した給与を手にしたいのであれば、就業規則などの不自由さを受入れなければいけません。
一方、その安定を手放せば、自由が手に入ります。
その自由は、稼がないといけないという責任が伴っています。
自分の力量が足らなければ、自由の範囲は狭くなります。
経済的自由を手にすると、誰も自分を管理しません。
自分で自分を管理しないといけませんが、とにかく自由です。
「山巓」とは山の頂上のこと。空気が薄く慣れてない人は耐えられません。
だから皆、不自由を求めるんです。
出社すればやることがあるという状況は本当に有難い状況です。
自由と覚悟
では、不自由の中に自由はないのでしょうか?
独立しない限り、自由は手に入らないのか?
そんなことはありません。
不自由の中の自由
先ほども言いましたが、要は、責任と権利のバランスです。
組織の中にいれば、自分から積極的に責任を取りにいくことはできます。
正常に機能している組織であれば、そこに必ず権利を与えてくれます。
それに比例した自由をあなたは手にします。
そこで結果を出せば、さらに大きな責任を与えてもらえます。
要は、その責任を受け入れる覚悟があるかどうかです。
自由をどこに求めるか?
独立しても不自由さはあります。組織にいても同じこと。結局、自由って不自由さの中にあるんですね。
大事なことは、その山を登る覚悟ではないかと思います。
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